連載•小説 信長が美濃・斉藤龍興の攻略に7年もかかった理由
信長が美濃・斉藤龍興の攻略に7年もかかった理由
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2026/02/23

 鮮やかな強襲作戦で東の今川義元を倒した織田信長だが、反対の西側、斎藤龍興の支配する美濃国を手中に収めるには、桶狭間での勝利直後から実に7年の歳月を要している。

 

美濃国は西部、東部、中部の3か所に分かれ、特に西美濃の稲葉山の山頂に建つ稲葉山城は、南側が山頂から麓までがひと続きの断崖絶壁、北側が長良川、南側には広大な湿地帯が拡がっているというまさに天然の要塞だった。

 

当主・斉藤龍興の祖父は油売りから戦国大名に成り上がった‶梟雄″道山。信長の正室・濃姫の父でもある。が、桶狭間の戦いの4年前、弘治2(1556)年に龍興の兄・義龍に殺された。その義龍も5年後に病で死去したことで、当時14歳だった龍興が当主の座に就いている。

 

いきなり力任せで攻撃するのが無理筋であることは自明。西美濃三人衆と呼ばれる龍興の有力な家臣(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)や加治田城、鵜沼城など中濃の城主たちを調略し、味方に引き入れて稲葉山城の孤立を図った。

 

そのうえで稲葉山城の武力攻略のためにも工夫をこらすのだが、ここで秀吉・秀長兄弟が大きな働きを見せる。墨俣菊城である。(つづく)(西川修一)

 

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