連載•小説
秀長人脈は、その死後にも残されていた。天下を取った後の秀吉の臣下が、武断派と文治派に分かれて対立していたのはよく知られている。加藤清正、福島正則ら武断派には秀吉・秀長と同郷の者が多く、対する文治派は秀吉が長浜城主になってから、将来に備えて地元・近江でスカウトして集めた若く才能のある面々だった。 一見、秀長は同郷の多い武断派に近そうだが、実際はむしろ文治派のほうに近かった。「文治派の精神的支柱」とも評する人がいるほどだった。理性派の秀長が、後に豊臣政権の有力な官僚となった文治派の面々と肌が合うと考えるのは不自然ではない。 その文治派の代表は、言うまでもなく石田三成である。秀長より20歳若い三成の正室は秀長の重臣・宇多頼忠の娘であり、後に三成が全国津々浦々で推進した太閤検地の原型を自国領・大和郡山で試験的に行ったのが秀長だった。秀長。 後に詳しく述べるが、敵味方に分かれた家康と三成は、ともに秀長から精神面で何らかの感化を受けていたのかもしれない。(つづく) (西川修一)
2026.01.29
昔の演芸評論家といえば真っ先に思いつくのが、アンツルである。思い出すのではなく、思いつく、というのは俺が物心ついた頃にはもう亡くなっていたからである。いや、その前にアンツルって誰なんだよ?と知らない方もいるだろう。令和の今、アンツルの話題をしている人は殆どいない。『アンミカ』の方が有名である。 アンツルって誰?フルネームは何?という時代になった。作家の安藤鶴夫である。俺の認識では、正岡容とビッグ2である。マサイルとは略されてないから、きっと、アンツルの方が人気があったと俺は勝手に思っている。 そんな存在なのだが、つい先日、実際にアンツルのことを知っている方と話す機会があった。なんという幸運!俺のアンツル愛を話せる!ところが、その方は 「アンツルねぇ」 と予想外の反応をした。えっ?俺はてっきり、 「いやぁ~君は若いのに分かってるねぇ」 などと開始一秒で盛り上がると思っていたのだが、どうも雲行きが怪しい。 (つづく)
2026.01.28
阪神・佐藤輝明が2月1日のキャンプイン直前になっても、いまだ球団と契約更改を行っていないことが波紋を広げている。2024年の契約更改時には本人がポスティングシステムによるメジャー挑戦を要望。今オフは実現しなかったが、来オフ以降について話し合いをしているものとみられる。 佐野氏は「確かに去年は2冠(40本塁打、102打点)獲りましたし、気持ちは分かりますが、どうせ行くのであれば円満に行って欲しいなと思います」と切り出す。 「思いを伝えるのは全然いいと思います。本人と球団でね、ひざを突き合わせて話をしてね。ファンも含めて応援してもらう形がいい」(佐野氏)。 一方で「今季、文句の言われない成績を残すというのも大事でしょう。昨季、村上も出遅れましたけど、復帰してからは素晴らしかったですから」とも話す。 求める理想については「僕は30本塁打でもいい。それよりもリーダーシップだと思います。苦言みたいになりますけど、三振したりミスしたあとに下を向いたりしまうのではなく、チームの主力として、みんなが背中を追いかけるようなリーダーシップを見せてほしい」とした。 (タサイリョウ)
2026.01.28
立憲民主党と公明党が組んで中道改革連合という新団体を形成し参議院選挙に挑むという茶番が繰り広げられているが、昨年まで私が仕えてきた浜田聡前参議院議員の動向が気になるところ。YouTubeやXなどSNS以外は地味で寡黙でソロ活動が得意な孤高の秀才であるが、氏のXを辿ってみると珍しく渾身の皮肉を放っていた。 『「中道」とは「中国への道」を意味するのでは』 山田君、座布団一枚!That‘s right。おっしゃる通り。浜田聡氏のポストへの反応の中には中道改革って『「中革」派じゃないか』というリプライも。立憲民主党の創設者の枝野幸男衆議院議員は中核派ではないが革マル派の代表格であるJR東労組の支援を受けているし、弁護士でもある枝野氏は革マル派のメンバーが捕まると代理人弁護士を務めていた経緯がある。立憲民主党の野田佳彦代表は仕事始めの挨拶で「媚中派の最高顧問もいますし、態度の悪い幹事長もいる」と発言しバッシングを受けた後に自虐的に言っただけだとして発言を修正している。これは紛れもなく枝野氏と安住氏を指している。公明党も中国とは結党以来の深い関係がある。公明党の母体である創価学会の当時の会長池田大作氏は中華人民共和国の正式承認と中国との国交回復を活動方針に掲げていた。公明党はその意向を汲んで事あるごとに日中間に介在してきた。悪いことと決めつけはしないが、公明党が中国共産党と親密な関係にあることは間違いない。立憲民主党と公明党が「中国への道」と言われてしまうことは名誉を毀損するバッシングの類ではない。そういわれる一端があるのだから事実の適示のようなもの。批判的なひとつの意見に過ぎない。大喜利風の浜田聡氏のポストはネガティブな評価であっても糾弾を回避する柔軟でクレバーなポストであった。 さて、そんな浜田聡氏は衆院選に立候補するのだろうか。自身の政治団体として日本自由党を立ち上げ、予てから国政に復帰する準備を進めてきた浜田聡氏であるが、目下のターゲットは3月に告示される京都府知事選であった。浜田聡氏は京都府出身であるから不自然ではない。3選を目指して出馬を表明している西脇隆俊氏は自公立国相乗りの絶対的な本命。西脇氏は京都出身の建設官僚、復興庁で事務次官を経験しているスーパーエリートだ。浜田聡氏にとっては売名に適い供託金ラインを越えたら御の字だと言える。京都知事選が国政復帰の為の取り組みだとすると、困ったことに高市首相の衆議院の解散総選挙がその前に行われることになってしまった。ただ、従前の方針だと浜田聡氏の狙いは衆議院ではなく参議院。衆議院だとしても比例の近畿ブロック。小選挙区での勝負は想定していない。なので、浜田聡氏が衆院選で京都1区からの立候補を検討しているのは京都府知事選の前哨戦としても位置付け。選挙戦略としては古典的だが有効。心配するとしたら選挙疲れと軍資金。何はともあれ、浜田聡氏は実直な人物であるから更なる活躍を期待している。私は京都で自分の会社の本社を置いて20年以上も活動していたし、自宅も浜田聡氏が住んでいた山科区大宅の同じ町内にあった。京都での知人友人は多い。陰ながら密やかに声掛けに勤しんでいこうと思っている。 最後に私も大喜利を。 中道改革とかけてハニートラップととく、そのこころは、 ちょうどよい快楽でしょう (坂本雅彦) 浜田聡X 引用ポスト https://x.com/satoshi_hamada/status/2011690688937906483
2026.01.28
先日、羽田から京急に乗った時のことである。ドアが開くと、これから空港へ向かう客と入れ替わりに、俺はフライトの疲労感で沈むようにシートに座った。 ふと見ると、前の席が一か所空いており、そこにネックピローが置いてあった。 そういえば俺が乗った瞬間、慌てて降りた中年の男がいた。一瞬だったが、男から何か飛び出たように見えた。そうか、あれはネックピローだったのか。 しかし、車内では忘れ物だと認識している人は少く見えた。吊革の人たちは、ネックピローの横に座っているオジサンの私物に見えているかもしれない。このオジサンも「これは俺のじゃないよ」という表情でみんなにうったえているようにも見えてきた。 忘れた男はこの先、何時間のフライトなのだろう。見れば、高級そうなネックピローだから、海外に行こうとしていたのかもしれない。ネックピローありきの旅程が崩れ去った男の絶望感を想像しただけで、俺の方が先に首が痛くなってきた。
2026.01.26
同期会、勝ち組集うその中に何食わぬ顔して出かけてはみた 貧富の差は長い歳月の積重ね 家族への責任果たしたか俺は 友はみな自信と笑みをたたえいる 家族と資産と第二の人生 小金得てセカンドキャリアという彼等 案外手応えない顔してる 今からじゃどうしようもない固まりを意味あるものにするため生きよ 俺だって七十余年生きて来た誰か伝記にするならしてくれ とりあえず俺は楽しく生きてるが、妻に問うたら何というかな NHKカルチャーセンター青山教室の福島泰樹・実作短歌入門。1月23日の七首連作の詠題は「歳月」だった。難しかった。ので、旧作の推敲・改作したものと新しく詠んだものを取り混ぜた。他の受講生からは、個人のキャラクターが出ている、という評価(なのか?)だったが、福島先生からは3点。その1=読んでいる内容は面白いが、短歌としてはどうか、考えよ。その2=五作目の「固まり」は何か具体に仮託して詠めないか。最後が歌の姿勢の問題で最も根源的な問いかけだった。敗北を歌うなら悲しみを表現せよ。しかし貴君は、言葉によって抵抗を歌え。うーん。
2026.01.26
秀長と家康が親しくなる契機となったと目される藤堂高虎は、秀長の腹心。心酔する秀長と常に行動を共にし、戦場では身長190㌢近い巨躯で大活躍した猛将である。後に秀長とともに大和国(現奈良県)大和郡山の治世に携わったほか、築城の達人としても知られている。 秀長の交遊は、四国・九州遠征で激闘を繰り広げた相手、長曾我部元親と島津4兄弟の長兄、義久とも戦後は親しくなっていた。元親とは早い段階で和睦の交渉を始めた秀長との繋がりが生まれ、義久は秀長の紹介で家康との交流が始まったと伝えられている。 秀長との関係がよく知られているのが、千利休である。ともに諸大名が秀吉と面会する仲介役を務めた利休を通じて、「へうげもの」古田織部や細川忠興といった茶人の武将や連歌師の里村紹巴(じょうは)、興福寺の英俊など文化人ネットワークを拡げたという。 そのネットワークに、先の高虎や小堀正次、桑山重晴ら秀長の家臣たちが出入りすることで、その教養を吸収したようだ。ちなみに正次の息子・政一は、茶道の遠州流の開祖であり作庭・・和歌・焼き物と万能のアーティスト、小堀遠州である。(つづく) 西川修一
2026.01.26
FA宣言していた楽天・辰巳涼介外野手、ソフトバンク・東浜巨(ひがしはま・なお)投手が残留を決断。セ・リーグのチームが調査していたという報道もあった。 佐野氏は「出戻りになったからといってそれほど気にしていないと思う。あとは2人とも結果を残すだけですから。やるしかないといったところ」とエールを送る。 だが一方で佐野氏は「セ・リーグは外国人は獲得していますけど、どこのチームもたいした補強はしていない。僕からしたら〝それでいいの?〟という気はしますね」と疑問を投げかける。 「優勝を目指すというか、チームが何をやりたいかというビジョンが見えてこない。打倒阪神というところが見えてこないんですよ。現状の選手の底上げを待つだけという感じですよね。日本もチーム編成ができるGM体制の構築をしっかりしなければいけないのかなと思います」 この提言は届くか。 (タサイリョウ)
2026.01.26
2026.01.24
これだけの能力と実績を見せつけながら朴訥で温厚、無口であったという秀長。承認欲求を極限まで膨らませたような兄・秀吉とはまったく違った飾らなさで、逆に人望を集めたと思われる。 そんな秀長と親しく交流していた歴史上の人物は少なくない。詳細は後から詳しく述べるが、秀吉の軍師・黒田官兵衛は、戦場では秀長とともに敵の攻略・調略を担ってきた。ある意味、竹中半兵衛亡き後の秀吉軍団の知性を担った2人である。 秀吉が官兵衛に宛てた手紙の中で「オレはお前を秀長同然だと思っている」という記述が見え、かつ黒田家に遺された文書の秀長評からは、官兵衛が秀長本人に対し多大な敬意が払っていたことが伺われる。 実の妹の旭が嫁いだ徳川家康は、信長の死後に秀吉陣営と長らく対立していた家康がようやく恭順の意を表してから、秀吉が京に築いた聚楽第の敷地内に邸宅を建てたのだが、その工事の責任者が秀長の腹心・藤堂高虎だった。その件で家康が秀長に出した礼状が今も残っている。 家康は秀吉の執奏により、朝廷から秀長と同等の権大納言の官位を得ている。秀吉を支える2人の弟分というわけである。(つづく) 西川修一
2026.01.22






