桶狭間以前、斉藤道山の援護で今川義元と戦った信長
連載•小説
2026/02/09
世上、織田信長が歴史の表舞台に立ったと言われているのは、永禄3(1560)年5月の桶狭間の戦いである。遠江、駿河、三河と現在の静岡県全域を支配していた今川義元の率いる2万5000人の軍を、わずか3000人で破ったとされる。
このとき義元が西に軍を進めた理由については、事前に京の都と連絡を取り合った形跡のないこともあって、定説だった上洛目的ではないことが明らかになりつつある。今川家と織田家の間では、信長の父・信秀の代から戦を繰り返しており、その決着がついたのが桶狭間だった、という見立てが現在では有力だ。
戦場における信長の天才ぶりは、その桶狭間以前の今川との戦いでもすでに発揮されていた。天文23(1554)年の村木砦の戦いである。21歳の信長が、今川方が尾張の領土内、現在の知多半島の北側に築いた橋頭堡・村木砦を落とした戦いである。
義元といったん和議を結んでいた信秀が天文20(1551)年に死去すると、信長が和議を破棄。各地の城を獲りつ獲られつ、互いの配下の国衆の調略・寝返りなど激しいせめぎ合いが続いていた。
信長は義父の斉藤道山に援軍を要請、嵐の中で20里(約80㌔)の海路をわずか約1時間で進み、水野信元と合流。村木砦に3方向から攻撃をかける。(つづく)
(西川修一)
TIMES
連載•小説






