社会•事件 【紀州のドン・ファン事件】積み重なる疑念と無罪判決という現実
【紀州のドン・ファン事件】積み重なる疑念と無罪判決という現実
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2026/04/08

 和歌山県の資産家である野﨑幸助さんの急死をめぐる紀州のドン・ファン事件は一審に続き控訴審でも無罪とされた。しかし、本件で示された事実関係を顧みると拭いがたい違和感が残る。

まず、死亡前の動きである。元妻の須藤早貴被告が覚醒剤の密売人と接触し、致死量を超える量を注文し、実際にそれらしき物を受け取っていたとされる点は極めて重大だ。単なる偶然や無関係な行動として片付けるには無理がある。加えて、インターネットで「完全犯罪」「老人、死亡」「覚醒剤、過剰摂取」など犯罪や薬物死に関する具体的な検索をした履歴が確認されている事実は少なくとも強い計画性をうかがわせる状況証拠と言える。さらに、死亡当日の行動も看過できない。被害者が覚醒剤を摂取した可能性がある時間帯に被告が短時間のうちに複数回、被害者のいる階へ往復していたという行動は極めて不自然である。これらの断片を積み重ねれば偶然の連鎖と見るよりも一定の意思に基づく行動と評価する方がむしろ自然であろう。

ところが裁判所は「合理的疑いを超える証明には至らない」と判断した。刑事裁判の原則に照らせばこの結論自体は理解できる。問題はその結果として「極めて不自然な状況が存在しながらも誰も責任を問われない」という事態が生じている点にある。被害者の側から見ればこれは単なる無罪ではない。「数多くの疑念がありながら、それがどこにも結びつかない」という説明の断絶である。なぜ覚醒剤が存在したのか、なぜそのような検索が行われたのか、なぜ当日に不審な行動が重なったのか。これらの問いに対し司法は最終的な答えを提示しなかった。もちろん、「疑わしきは被告人の利益に」という原則は揺るがしてはならない。だが、その原則のもとで取りこぼされる「真実」や「被害者の納得」に社会はどう対処すればよいのか。本件のように状況証拠が積み上がりながらも決定打に欠ける事件では現行の立証構造そのものが限界に直面している可能性も否定できない。単なる感情的な有罪視ではない。むしろ、なぜこれだけの状況証拠がありながら、法廷で結論に至らなかったのかを冷静に検証することである。証拠収集の初動に問題はなかったのか、科学捜査の水準は十分だったのか、間接証拠の評価方法は適切だったのか、こうした点を精査しなければ同様の「説明できない死」は繰り返されかねない。

無罪判決は法の原則を守った結果である。しかし、その陰で被害者の無念が置き去りにされてよいはずはない。疑念が疑念のまま終わる社会を是とするのか。それとも、より真実に近づく制度を模索するのか、今回の判決がその選択を迫っている。

(坂本雅彦)

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