2024/11/02
あえて福島に飛び込む
福島県双葉郡大熊町。太平洋に面する海沿いのこの町で、私は農業をしながら生活をしている。
作っている作物はキウイフルーツ。多くの人がキウイに対して南国フルーツのイメージを持っているようで、「福島で作れるのか」とよく聞かれる。確かに国内の主な産地は四国や九州など南西の方で、福島はキウイ産地としては北限と言える。しかし、私の思いつきでキウイを作り始めたという訳ではない。この町は、40年も前からキウイが作られていた、立派な産地であった。
大熊という町の名前を聞いてすぐにピンと来た方もいるかもしれないが、この町には2011年に事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所が立地している。キウイの「産地であった」と過去形にしたのは、先の原発事故によって、この町でのキウイの生産はストップしてしまったからだ。
あの震災の日からしばらく、テレビのニュースでは毎日、毎時間、大熊にある原発の姿が流れていた。私は当時、福島から遠く離れた横浜市内に住む小学校3年生だったが、テレビの中の人が、真剣な面持ちでその危険性を語る放射線、原子力という得体の知れない言葉に、漠然とした恐怖と不安感を抱いていた。一方で、その原発がある町でキウイを作っている人がいたことなど、当時は知る由もなかった。事故が起きた原発がある町、というイメージだけを、その時の私は持っていた。
震災の発生から9年が経過した2020年に、私は大学生になった。元々マスメディアの仕事に就きたいと思っていたため、大学生になったらその仕事に通ずる活動をしておいた方がいいという考えがあった。自分なりに色々考えた結果、小学校3年生から漠然とした興味と恐怖を持っていた原発事故にフォーカスしようと、私はその年から大熊町の方への取材を始めることになる。
その後色々と形を変えながらも、4年ほど大熊町に関わらせていただき、今ではこの町に住むようになったことで、私のこの町に対する見方は、少しずつアップデートされてきたと思う。
当初は原発事故が起きたテレビの向こう側の町と思っていた場所に、自分と同じように小学校に通っていた人や、自分の親のように仕事をしている人がいて、普通の生活、人々の営みがあったことを知った。この地に長く受け継がれてきた伝統芸能や、文化、産業があることを知った。何年もの時間をかけて育まれた美味しいフルーツがあったことを知った。当初原発があることしか知らなかった私は、取材と、この町での生活と、たまの飲み会を通して、町の方にたくさんのことを教えてもらい、この町の様々な面を認識できるようになってきたと思う。
そうして見る大熊町は、小さい頃の私がテレビを通して見ていたよりも、ずっと鮮やかだ。
ここまでの書き振りでも伝わるかと思うが、私の元々の出身は大熊ではない。大熊からは300kmほど離れた、神奈川県の横浜市に生まれ育った。親族や知り合いがこの大熊近辺にいたわけでもなく、縁もゆかりもない場所だった。両親共にサラリーマンで、農家の家系でもない。
実は今も、慶應義塾大学に4年生として所属しているが、その専攻は政治学で、農業の知識や経験を持っているわけでもない。まさに畑違いの農業に挑んでいる私のこれまでの歩みと、私の視点から見るこの地域の様子を綴っていきたいと思う。
▼まずは私が生活している大熊町について、もう少し詳しく説明しよう。
福島県は東から浜通り、中通、会津と大きく三つの地域に分けられる。大熊町が位置する浜通りは、その名の通り太平洋沿いの地域で、常磐ものと呼ばれる日本で一番美味しい魚介類が食べられる場所として知られる。
大熊町では、町内を通り太平洋に注ぐ熊川で、毎年春先に鮭の稚魚が放流され、秋に海から上ってくるその成魚が、町の名物として人気を博していた。震災後は稚魚の放流がしばらくされなかったため、現在は遡上してくる鮭の量も少なくなっており、かつてのように立派な鮭が毎年登ってくる光景を、私を含め多くの人が心待ちにしている。
熊川の鮭に負けないこの町の特産品として愛されていたのが、梨とキウイだ。福島県全体としても、フルーツの生産が非常に盛んであるが、その中でも大熊町は知る人ぞ知る美味しいフルーツの産地であった。町のキャッチコピーは「フルーツの香るロマンの里」。今もそのフレーズと、町名産の梨とキウイと鮭を抱えたマスコットキャラクターが描かれた看板が、町の玄関口で人々を迎えている。
町一番の特産と言われた梨は、100年以上前から町内で栽培されていたとされる。幸水、豊水を中心に生産されていたようで、町民の方に話を聞くと、「大熊以外の産地の梨は食べられない」と多くの人がおっしゃるほどに、その味は格別だったと言う。先日お会いした東京のフルーツ店の方も、震災前の大熊の梨は特別美味しかったと口にされており、その味は全国区だったようだ。横浜に生まれ育った私は、残念ながらその梨を食べたことはなく、町の人から梨の話を聞くたびに悔しい思いをしている。
そんな自慢の梨に追いつけ追い越せと、震災直前の時期に勢いを増していたのが、キウイフルーツだった。100年以上の歴史を持つと言われる梨に対し、大熊町でキウイの栽培が始まったのは1982年と、震災からおよそ30年前のことであった。この町でキウイが作られるようになった背景を少し深ぼって説明したい。
新しい出会い
そもそもキウイは、元々日本には自生していなかった作物である。ではどこが原産国なのかというと、意外に思う方も多いかもしれないが、お隣の中国なのだ。多くの方が、キウイといえばニュージーランドというイメージを持っていらっしゃるかと思うが、実は現在でもキウイの生産量、消費量ともに、中国が世界の半分近くを占めている。ただ中国は自国内での需要、消費量が莫大であるため、中国産のキウイが日本に渡ってくることはなかなかなく、国内で見るキウイの大半はニュージーランド産のものになっている形だ。ちなみに、単位面積あたりの収穫量では、ニュージーランドは中国の3倍近い数字を叩き出しており、生産性、生産技術では南半球の雄に軍配が上がる。
日本には、1970年代になってはじめて、キウイが持ち込まれたとされている。鮮やかな緑色で、他の果物にはない爽やかな酸味を持つキウイは、日本への導入当初はその珍しさもあって高値で取引されたと言う。
そんな一風変わった果樹に目をつけたのが、1970年代から80年代にかけて大熊町議会議員を務めていた、井上文男氏だ。当時の大熊町は福島第一原発の立地が決まり、その建設がひと段落した頃であったが、この町も元々は米農家が大半を占める、一般的な農村であった。そのため、1960年代に全国的にその傾向が現れ始めていたコメの生産過剰と、それに伴う米価の低下、減反政策の導入という課題に向き合う必要があった。この課題への解決策の一つ、コメに代わる新規作物として、まだ国内では珍しかったキウイを町の新たな特産にしようと、井上氏は考えたのである。
平成4年に発行された『大熊町農業協同組合30年史』にも、「健康食品として人気のあるキウイフルーツを、水田転作作物として当町に導入してはどうか、調査して欲しいと57年に町の議会から依頼があり、役場産業課が主体となって調査した結果導入することとなり、ただちにキウイフルーツ協会を設立して、60年より5ヶ月間に20haを栽培目標面積として、町の補助事業として取り組むこととなった」という記述がある。「町の補助事業として」という点が興味深く、実際に当時キウイ栽培を始められた方に聞くと、キウイ栽培にかかる設備投資や苗木の購入については、全額に近い形で町からの補助があったと言う。補助事業の詳細について記載された資料は現時点で見つけられていないのだが、町としてかなり力を入れてキウイの導入、産地化を目指していたことは確かだろう。
その町役場の情熱は、すぐに民間にも伝播していったようだ。1971年から毎月発行されている「広報おおくま」。その昭和57年7月号には、「大熊町キウイフルーツ生産組合栽培時次指導講習会開催される」という見出しの記事が踊っている。記事によれば、この年の3月に、町内で最初にキウイを育て始めた15名のメンバーにより、この組合が発足。同年6月半ばに当時の日本キウイフルーツ協会理事長の澤登晴雄氏を町に招いて、講習会が開かれたそうだ。澤登氏は、日本で最初にキウイの栽培を始めた方として、界隈ではかなりの有名人である。そんな大物を、発足からわずか3ヶ月の段階で大熊まで呼び寄せたところに、この組合を組織した15人のパイオニアたちの熱が感じられる。
この15人の中には、現在まで元気に暮らされている方もいらっしゃる。何人かには私も直接当時の話を聞くことができた。導入当初は、当然誰もキウイ栽培の方法など全く知らない中で、先述の澤登氏の農園をはじめ、全国各地のキウイ園への視察や研修に足繁く通い、各人が身につけた技術や知見を他のメンバーと共有しながら、町内の生産者全体で栽培技術を高めて行ったのだという。
当時も今も、国内のキウイ産地は四国や九州など西日本に集中している。北限の産地とも言われる大熊町では、他の産地にはない霜のリスクや、土壌特性、天候の違いなど、様々な困難があったというが、先人たちはそうしたハードルにぶつかる度に数えきれない努力と試行錯誤を繰り返してきたそうだ。
そんな黎明期から約30年、2010年の段階では、町内でキウイを栽培する経営体の数は25まで増え、その売り上げは1億円に迫るまでになっていた。「ビーナス」と名付けられた大熊産のキウイは、町内外で評判を呼び、贈答用としても多くの方が購入されていたという。1人の町議会議員と、15人の生産者から始まったキウイ特産化に向けた動きは、見事に結実したと言えるだろう。
▼そんなタイミングで町を襲ったのが、2011年3月11日の震災と原発事故であった。
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