社会•事件 あえて原発事故現場のど真ん中でキウイ栽培 阿部翔太郎
あえて原発事故現場のど真ん中でキウイ栽培 阿部翔太郎
社会•事件

2024/11/03

津波が容赦なく押し寄せてきた

大熊町では震度6強が観測され、海沿いに位置する福島第一原発には、推計13mの津波が到達した。

地震が発生したその日のうちに、原発から半径3km圏内に避難指示が出され、該当する地区に住んでいた方は、スポーツセンターなど町の施設に身を寄せた。原発の状況が悪化するとともに、避難指示の対象は拡大され、翌12日のうちに、大熊町はその全域が避難指示の対象となった。

「とにかく西へ」。避難が始まった当初、町の方に届いた言葉はただそれだけだったという。西のどこ、というわけではなく、「とにかく西へ」。

住民全員が自治体を離れなければいけないという過去にない事態において、受け入れ先の施設など、用意されているわけがなかった。大熊町から南北に移動するための道路は地震の影響で歪み、通れない所が多かったことから、車が通行できる状態であった西に向かう道路で、多くの人が避難することになったそうだ。

これまで何人かの町民の方に、事故後の様子や生活について話を伺ってきたが、多くの方が「2,3日で大熊に帰って来られると思っていた」とおっしゃられる。

大熊町への避難指示が最初に解除されたのは、実際には、事故の発生から丸8年が経過した、2019年の4月であった。その後、2022年6月にも、町内の一部の地区への避難指示が解除されたが、現在も避難指示が発令され、立ち入りを制限されている地区も多く残っている。震災発生から13年が経つ現在も、かつてのご自宅、生まれ育ち長く暮らした地区に帰ることができないという状況の方も多くいる。

ある日突然自分の住んでいた地区を離れないといけなくなり、そのまま10年以上、あるいはもっと長い期間、そこに戻れないという状況に置かれた方の心情は、いくら当人に話を伺ったとしても、私が完全に理解できるものでも、ここで文章にできるものでもないと思う。ただ、先の原発事故がこの町の方の暮らしと故郷を一変させたという事実は、多くの人が改めて目を向け、より重く受け止めるべきであるように思う。

▼事故後、福島県をはじめとする8県で、生活空間の放射線量を下げるため、除染と呼ばれる作業が行われた。除染にもいくつかの方法があるが、中心となったのは、飛散した放射性物質が付着した土を剥ぎ取ってしまうというものだ。例えば学校の校庭や、公園の土などが対象となり、表土が剥ぎ取られたのである。除染作業は生活再建のために必要なものであったが、除染のため剥ぎ取った、除去土壌と呼ばれる大量の処理という問題が新たに生まれることになる。

福島県内の除染作業に伴って発生した除去土壌は、大熊町と、隣の双葉町に跨り、福島第一原発を囲うように整備された中間貯蔵施設に保管されている。その名の通り、この場所での除去土壌の保管は、あくまで中間的、時限的な措置であるとされ、2045年までに除去土壌は福島県外で最終処分されることになっている。後の連載で詳しく触れたいと思うが、現在中間貯蔵施設になっているエリアも、当然震災前は人が暮らしていた場所であり、この施設のために、少なくとも2045年までは自宅や生まれ故郷に戻ることが叶わないという方もいらっしゃる。

そして、町の名産だった梨やキウイは、除染によりその姿を消すことになった。果樹園地の除染では、表土の剥ぎ取りだけでなく、そこにある果樹の抜根が行われたのだ。放射性物質が付着した土を取り除くには、当然そこに根を張った果樹も、一緒に取り除く必要がある。その理屈も一定程度理解できるが、長年そこで果樹を栽培されてきた方々が除染と向き合われた時、私には到底推し量れない心境があったことと思う。

横浜出身の私は、震災前の大熊の風景も、大熊のフルーツの味も知らない。私が初めて大熊を訪れたのは2021年の夏で、その時にはもうかつての果樹園地は、除染を経て更地になっていた。ただ、その後で町に来た私でも、町の方のお話を伺っていると、少しだけ大熊のフルーツに触れることができる気がする。

震災前、春先には梨の花が一面に咲いて、町内の高い所からそれを見ると、真っ白な絨毯のようだったという話を、何人かの人がしてくれた。小学校の帰り道に、道中の果樹園で梨やキウイをもらって帰ったという思い出話をしてくれた方もいた。町の方が、そうした話を懐かしそうに、どこか嬉しそうに語っているのを見る度に、フルーツがこの町の風景や人々の暮らしを彩っていたのだろうと、知るはずもないその様子を想像してしまう。そして、そんな震災前の町の姿を、私も実際に見てみたかったなと、格別に美味しかったというその梨やキウイを食べてみたかったなと思う。

しかし、いくらそう願っても、震災前の大熊を訪ねることはできないし、町内で本格的な果樹栽培を再開される方もまだおらず、その願望は叶わない。それならば、話に聞いてきたかつての栽培法に倣って、自分がこの町で果樹栽培をしてみようと考えるようになった。それが、私がこの町でキウイを作るようになった最大の理由だ。

この町でキウイを作るというのは私のエゴであり、自己満足だと思っている。この町の出身でもなく、震災前の町の風景を見たことも、大熊のフルーツを食べたこともない私がそれを作ったところで、それは大熊のフルーツを取り戻したとは言えないだろう。特別農業の経験があるわけでもない私が作ったフルーツが、震災前この町で作られていたもののように多くの人に愛され、美味しいと言ってもらえるものになるとも限らない。

それでも、町の方に震災前の話をたくさん聞かせてもらい、この町で作ったフルーツを私は食べてみたいと思ったし、これから先のこの町の風景の中にも、私は果樹があってほしいと思った。そんな個人的な願望を理由にキウイを育てていることが、町の方のためなどとは言えず、どこまでも私の自己満足だと思う。

自己満足だと思いながらも、自分が美味しいフルーツを作り、それを食べた町の方に喜んでもらいたい、自分の取り組みが町の方のためになってほしいという思いもある。先に述べた、この町にキウイが導入された歴史や、長くこの町で果樹に向き合ってきた先人たちの試行錯誤を、自分が引き継ぎ後世に伝えたいとも考えている。それもこれも全部、私のエゴでしかないのだが、そんな理想像が私の原動力になっている。

本格的にキウイ栽培を始める

▼そんな思いのもと、地元の方たちが作った任意団体の活動に参加する形で、2年前からキウイ栽培を始めた。そして昨年秋には、ReFruitsという名前をつけた会社を共同で創業し、今年から会社の事業としての本格的なキウイ栽培をスタートさせた。わざわざ会社を立てたのは、この町での果樹栽培を数十年先まで持続可能な、町の主要な産業と言えるものにしたいという思いからだ。

大熊のフルーツとしては梨の方が歴史は長く、生産量も多かった。それにも関わらず、梨ではなくキウイの栽培から事業を始めたのは、キウイの市場状況が良好で、ビジネスとして成立させられる可能性がより高く、自分たちの目指す産業としての果樹栽培の再生の実現可能性が高いと考えたからだ。

実は過去20年の間、日本全体での人口減少を背景として、梨を含むほぼ全てのフルーツの消費量は長期的な減少傾向にある。そんな中で、キウイの消費量だけはこの20年で2倍以上に増えてきたのだ。

数あるフルーツの中で、キウイだけが驚異的な消費量の伸びを記録している理由は、この業界を牽引とするZespriという巨大企業の強烈なプロモーションと、マーケティング戦略に求めることができる。

緑と黄色のキウイを模したキャラクター、通称「キウイブラザーズ」が歌い、踊る印象的なCMを、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。2016年にZespriが導入したこのCMシリーズは、今や毎日のようにテレビ、youtube、インスタグラムの広告で流れ、キウイの美味しさと健康効果を多くの人にアピールしている。しかしよく考えれば、これは異常なことだ。一つの食材のためのCMが、これだけ多くの媒体で全国的に流されているケースなど、一体他にあるだろうか。りんご単体のCMも、みかん単体のCMもない中、Zespriはキウイというフルーツの認知度と、購買意欲を向上させるための徹底的なプロモーションを、相当な予算をかけて行ってきたのである。

その結果、2000年代初頭には5万トンほどであったニュージーランドからのキウイの輸入量が、2020年には10万トン以上にまで増えている。一方、国産キウイの出荷量は右肩下がりで推移しており、最近は約2万トンにまで落ち込んでいる。つまり、現在キウイの輸入量と国内出荷量の間には、8万トン近い大きなギャップがあるのだ。

Zespriが扱うニュージーランドのキウイは、南半球で栽培されているものなので、国産のキウイとは出回る時期が被らない。そのため現在の日本では、ニュージーランド産のものが出回る時期には10万トン以上のキウイが消費されているのにも関わらず、国産が出回る時期には約2万トンしかキウイが供給されていないという状況になっている。つまりZespriが強烈なプロモーションにより開拓してくれた日本のキウイ市場は、国産の時期においては過小供給の状態になっており、国産キウイは確実に販路を作り、売上を確保することができやすい環境にあるのだ。

こうした背景のもと、会社としては今年の春からキウイ栽培をスタートさせたが、桃栗三年柿八年という言葉があるように、キウイも他の果樹同様に、栽培の開始から実をつけるまでには長い時間がかかるため、本格的な収穫はまだ先になる。それまではキウイによる売上は立たず、キウイの市場状況は良好と言えど、我々の会社としての挑戦は簡単なものではない。

それでも私がキウイを作ろうと思ったのは、現在の共同創業者をはじめ、過去数年この町に関わる中で、多くの方との素敵な出会いがあったからだ。

ありがたいことに、まだ何も成し遂げてない自分にこうした連載のお話をいただいた。拙い文章になってしまうと思うが、せっかくいただいた機会なので、魅力あふれるこの地域の人々との出会いを中心に、当初はキウイを作ることなど全く想像していなかった私の歩みと、私から見えるこの地域の今の姿を、伝えていきたいと思う。

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