秀長は、豊臣家に尽くしたあの男の‶心の支え″だった
連載•小説
2026/01/29
秀長人脈は、その死後にも残されていた。天下を取った後の秀吉の臣下が、武断派と文治派に分かれて対立していたのはよく知られている。加藤清正、福島正則ら武断派には秀吉・秀長と同郷の者が多く、対する文治派は秀吉が長浜城主になってから、将来に備えて地元・近江でスカウトして集めた若く才能のある面々だった。
一見、秀長は同郷の多い武断派に近そうだが、実際はむしろ文治派のほうに近かった。「文治派の精神的支柱」とも評する人がいるほどだった。理性派の秀長が、後に豊臣政権の有力な官僚となった文治派の面々と肌が合うと考えるのは不自然ではない。
その文治派の代表は、言うまでもなく石田三成である。秀長より20歳若い三成の正室は秀長の重臣・宇多頼忠の娘であり、後に三成が全国津々浦々で推進した太閤検地の原型を自国領・大和郡山で試験的に行ったのが秀長だった。秀長。
後に詳しく述べるが、敵味方に分かれた家康と三成は、ともに秀長から精神面で何らかの感化を受けていたのかもしれない。(つづく)
(西川修一)
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