連載•小説 蝦夷地の調査隊のメンバーになるはずだった平賀源内
蝦夷地の調査隊のメンバーになるはずだった平賀源内
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2025/04/28

 田沼意次の下で平賀源内が尽力したのは、まずコメだけでは立ち行かなくなった幕府の財政の再建を目指す殖産興業だった。意次の庇護を受けて長崎遊学、オランダ商人から最新の西洋知識や技術を学び、その知見を江戸に持ち込んだ。そして火浣布開発し、陶器・毛織物の製造など意次の技術革新政策に貢献している。

 

さらに、秩父鉱山の開発・採掘も源内の仕事だった。源内の「山師」とは純粋に鉱山開発における技術・経営の両面で不可欠な実務責任者のこと。いかがわしい投機家というイメージがついたのは後のこととされる。

 

当時の意次はロシアの南下政策を察知し、蝦夷地の開発に意欲を燃やしていた。『べらぼう』劇中では、源内が意次に直接蝦夷地直轄化・鉱山開発・ロシア交易を提案したが、意次が仙台藩医・工藤平助からロシアの南下の危険性とその備えの不備を指摘した『赤蝦夷風説考』を献上されたのは1783(天明3)年。源内の死後のことである。意次はこれを受けて翌1784(天明4)、幕府普請役の最上徳内らを派遣し大規模な調査を開始した。

 

もし源内が存命なら、調査に関与した可能性が非常に高い。最上徳内とは弟子筋で繋がりがあったほか、蝦夷地開発にはロシアとの交易の決済手段として金・銀・銅採掘する構想があり、実際に調査隊はその埋蔵量調査している。特殊な技術の要る鉱山開発などのノウハウを持ち、経験豊富源内はうってつけだった。

 

しかし、源内はそれを待たずに1779(安永8)年、伝馬町(現小伝馬町)牢屋敷で病死したとされる。そこに至るまでの経緯がやや不可解なものだった。(つづく)

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