悪役イメージとは程遠い田沼意次「殖産興業」政策
連載•小説
2025/06/16
天明末期から寛政初期にかけて相次いだ天災や政変を背景に、戯作の作風が享楽的なものから次第に政治的批評・風刺がきいたものに変化してゆくのは、もともと移ろう人心に敏感な媒体だけに、ごく自然のなりゆきだったろう。
そこで版元の先頭を走るのはやはり蔦屋重三郎だった。ただし大河『べらぼう』劇中では平賀源内を通じて時の権力者・田沼意次と蔦重との同志的繋がりが描かれていたが、この先、幕府当局は一転して蔦重を力で「締め上げる」存在と化していく。
ここでは再び江戸城・幕府内に目を移して、この期間の政争の一部始終を見てみよう。田沼意次の10代将軍家治の嫡男・家基および直接の配下だった平賀源内の‶暗殺死″、その源内が先頭に立つはずだった蝦夷地調査隊についてはすでに触れた。
意次が積極的に進めた殖産興業政策は、悪役イメージとは程遠い。窮乏した幕府の財政再建のために、意次はコメの収穫高を上げること、貿易拡大のため開国することを構想した。その一環である蝦夷地調査団の目的は、新田開発の可能性や鉱物資源の有無の確認、ロシアの南下政策への対応、海産物の増産による長崎での貿易拡大だった。
蝦夷地の調査は少し先の1785(天明5)年から10カ月年かけて行われ、蝦夷地本島(現北海道本島)の新田開発によって実に583万石が得られると試算されている。当時の幕府直轄領の石高約400万石を大幅に上回っていた(つづく)。
TIMES
連載•小説






