2025/12/24
戦前に田中義一という帝国宰相がいた。戦前の日本の外交政策を大きく転換させ、その後の日本の針路に重大な影響を与えた人物だ。それでいて歴史上の人物として、善悪ともに評価がなされているわけでもない。
田中は、明治維新を起こした長州藩の出身で、子供の頃に萩の乱に参加したことがあった。長州閥の後ろ盾によって、陸軍軍人でありながら、政党政治に入り込んでいる。初の本格的政党内閣である原敬内閣の陸軍大臣に就任したが、シベリア出兵(1918年~1922年)や、尼港事件(1920年。ロシア革命に軍事介入した日本軍に対して、赤軍側が中国海軍の協力のもと反撃、日本軍守備隊が全滅し、民間人多数が虐殺された事件)の責任を帝国議会で追及され、その心労で体調を崩して陸軍大臣を辞任。田中の辞任後に首相の原は、後に満州の陸軍司令部に勤務している中岡艮一によって暗殺されている。
田中が首相になる前の日本の外交は、エリート外交官の幣原喜重郎(戦後初の首相)の協調外交であり、欧米諸国からも中国からも信用があった。西欧と協調する一方で、中国の革命政権(国民党の中華民国)とも衝突を避け、内政不干渉を唱えた。これは第一次大戦中に対華21カ条要求を突き付けたことが、中国民衆のナショナリズムを刺激し、反日運動(五・四運動)が起きたことに対する反省からだった。
幣原外交の典型が、『1927年の南京事件』の日本政府の対応だった。1937年の南京虐殺が起きる前は、南京事件とはこちらを指した。
蔣介石の国民革命軍が南京を占領、一部中国軍民が暴徒と化して日本・アメリカ・イギリスの領事館や外国系企業・大学や居留民を襲撃、暴行・略奪等を行った。アメリカ・イギリスの砲艦は、中国軍民に盛んに発砲したが、無抵抗を命じられていた日本軍は、反撃をしなかった。外務省は事件当初から、南京事件が、蔣介石失脚をねらう共産主義者による謀略と分析していたからだ。
ちなみに英米両国は、蔣介石に最後通牒を突き付けることを決め、日本にも同調を求めたが、幣原は英米大使を説得して断念させ、英国外相から「幣原男爵の楽観主義は救いがたい」と批判されたが、事件の拡大を防いだのは確かだった。ところが、南京事件に対する幣原の平和主義は、国内世論から弱腰・軟弱と批判を受けることになり、この国民感情を背景に積極外交を掲げて総理に就任したのが田中義一だったのだ。
それでは、田中の積極外交には、何らかの戦略があったのか? というと、これが実に心許ないのだったのだ。(続く)
(青山みつお)
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