2026/04/10
岩屋毅元外相が国旗損壊罪は不要だと主張したことへの反響が大きい。岩屋氏の主張の根拠となっているのは憲法で保障されている内心の自由と表現の自由である。併せて、発生頻度が低いということ。国旗に対する象徴的価値を鑑みれば表現の自由に優先されてもおかしくないし、発生頻度の低さを過度に重視する必要性もない。象徴的法益は重視されるべきである。国旗は国家の象徴である。それを法的にどこまで守るべきかという問いは国家観や憲法思想を現す。各国の制度を比較すると日本の立ち位置がいかに特異であるかが浮き彫りになる。
まず、英米圏の代表であるアメリカやカナダ、イギリスでは国旗損壊そのものを直接処罰する規定は基本的に存在しない。とりわけアメリカでは国旗焼却すら象徴的表現として保護される。国家の象徴であっても批判や抗議の対象となり得るという考え方が徹底されているのである。これらの国々では仮に処罰が行われるとしても騒乱や器物損壊といった別の法益侵害に限られる。国家よりも個人の自由を優越させる自由優先型の典型である。
一方で欧州大陸諸国は異なるアプローチを取る。ドイツやイタリアでは自国旗のみならず外国国旗の損壊も刑罰の対象とされている。特にイタリアは相互主義の考え方を採用し、外交的礼譲の観点から外国国旗の保護を明文化している。フランスも公共の場における国旗侮辱を処罰対象としており国家象徴を公共秩序の一部と捉える姿勢が明確だ。もっとも、これらの国々では表現の自由との調整が不可欠とされ無制限の処罰が許されるわけではない。国家と個人の自由の均衡を模索するモデルといえる。
さらに、韓国や中国のように国家の尊厳や体制維持を重視する国々では国旗損壊は明確に犯罪とされ比較的厳格に運用されている。国旗は単なる象徴にとどまらず国家そのものの権威と結びついている。
こうした国際比較の中で日本の制度は極めて異質である。日本には外国国旗損壊罪が存在する一方で自国の国旗については刑事罰が設けられていない。英米型のように「いずれも処罰しない」わけでもなく、欧州型のように「いずれも保護する」わけでもない。結果として日本は「外国のみ保護する」という非対称な構造にとどまっている。
この歪みは何を意味するのか。一つには、外交的配慮が国内の象徴保護よりも優先されている現実である。外国国旗の損壊を処罰するのは国際関係への影響を避けるためという側面が強い。しかし、それならば自国の象徴をどう位置付けるのかという問いには明確な答えが与えられていない。結果として日本の制度は理念的整合性を欠いたまま放置されている。
国旗損壊罪の新設には慎重論も根強い。表現の自由との関係は避けて通れず、刑罰権の過度な拡張は抑制されるべきだという指摘には僅かながら合理性がある。だからといって現行の非対称状態を無批判に維持してよい理由にはならない。問題は「処罰するか否か」以前に、「何を守るのか」という価値判断が曖昧なままである点にある。国家の象徴をどのように扱うかは、その国の民主主義の成熟度を映す。自由を徹底するのか、秩序との均衡を図るのか、それとも国家尊厳を優先するのか。いずれの選択にも一貫した理念が必要である。日本に求められているのは、他国の制度を単に模倣することではなく、自らの憲法秩序に照らした明確な原則の提示であろう。(坂本雅彦)
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