社会•事件
2024.11.26
2024.11.25
令和の大発見か?最後の「ひまわり」が日本にあった!? 〝汚れた絹のハンカチ(この言葉を知っている読者はもういないかもしれない。光陰矢の如し。筆者注)〟こと藤山愛一郎は、この美術品を親分だった岸の計らいで個人所有してしばらくはそのままにしていた。近衛を管理していたのは、岸の指示で神奈川県大磯町の大川画廊なるところで為されていた。同画廊の主人が岸の出身地長州で 同郷の誼からここで管理保管しろとなったという。ところが、藤山はそれから10年近く経ってこの絵画を金に替える。その頃、藤山は叙勲を受けたりしているが、莫大な資産は自民党のためにそのほとんどが蕩尽されていた。藤山コンツェルンは、自民党のために潰えてしまう。藤山は、1970年、自民党のために最後の資金工作に走る。その最後の手段となったのが、他ならぬ「もうひとつのひまわり」だった。 その苦心の工作を物語るエビデンスがここにある。 1970年(昭和45年)の年賀状二枚。宛先は、住所は異なるが同一人物である。これはその人物が都内と神奈川県藤沢市の2カ所に住居を持っていたということである。一方、差出人はいずれも同じである。つまり、同一の宛先人、同一の差出人の同年の年賀状二枚ということである。宛先人は故人ではあるが、市井の人なので名前は避ける。差出人は、衆議院議員藤山愛一郎内となっている。つまり藤山の細君ということだ。ちなみに藤山の細君は久子(ひさこ)というが、この人は戦前の大蔵大臣、日銀総裁を務めた結城豊太郎が父親である。ただ、書かれた字を見ると、達筆でしかも力強い。とてもいわゆる女文字には見えない。このからくりはこの後すぐにわかる。 その年賀状には年初の挨拶とともに非常に興味深い文言が綴られている。 一枚目 『大磯の件ゴッホのひまわりは日本の浮世絵四点と交換した絵画のうちのひとつで未発表のものです。何卒よろしくお願い致します』 二枚目 『大磯の件、一日も早く整理致したく○○様(※宛先人の名前)にしか心当たりがございません。何卒よろしくお願い致します』 これは、考えるまでもなく、ゴッホの「もうひとつのひまわり」を担保にした融通のことを指している。差出人はあくまで藤山の細君になっているが、これは内容が内容だけにあえてそのような便宜を図ったのであろう。このような年賀状ともなるとこれが藤山本人となればやはり体裁を考えたのであろう。 二枚の同じ年に出された年賀状とともにもう一枚の書面がある。これがいわゆるこのゴッホを取り巻く一連の挿話のカウンターとなる。 その書面の書き手は、はっきり藤山愛一郎と綴られている。内の文字はない。小野書面には、次のように記されている。いうまでもないことだが、この書面の筆跡は先の二枚の年賀状と同じである。一目瞭然なのである。 『○○殿 金七○億円 也 但し、ファン・ゴッホ作「向日葵』五○号 代金として 昭和四六年一○月七日 藤山愛一郎』 藤山が所有していたゴッホの「ひまわり」は、この書面の宛先人が70億円で購入したのだ!藤山は自民党に捧げる最後の資金をかくして作ったのである。それにしても、1970年当時の70億円というのは今でいうならばいくらになろうか。年賀状での申し出から購入まで、二年近くかかっている。藤山は常に金の算段に奔走していたのである。中原中也じゃないが、汚れちまった〝絹のハンカチ〟。政治の恐ろしさをまざまざと見せつけられる思いだ。 ゴッホによる知られざる「もうひとつのひまわり」は、自民党という濁流の中でさんざん弄ばれたわけだ。そこには芸術もなにもない。あるのは欲望だけである。 藤山は結局買い戻しなどしていない。何もかも封印されてしまったのだ。藤山はこの6年後政界を退いた。 オランダからはるばる日本にやってきた「ひまわり」、ただ、美術史の片隅にも出てこない「ひまわり」。 この先人間の欲望の渦の中に巻き込まれたたくはない、もうたくさんだ、と倉庫の片隅でうずくまっているように思えてならない。
2024.11.23
もうひとつの「ひまわり」 件の「ひまわり」が、我が国に上陸したのは、1958年(昭和33年)10月のことである。東京上野の国立博物館でなんと内閣総理大臣主催の「ゴッホ展」なる催事があった。総理大臣は、〝昭和の妖怪〟こと岸信介。総理大臣主催のゴッホ展とはさすがに〝妖怪〟である。驚いたことにこのとき、我が国に130点ものゴッホ作品が集った。この際、妖怪こと岸総理大臣は、こんな挨拶を国民に向かって投げている。 今回我が国において、「ファン・ゴッホ展」が実現されましたことは私の深い喜びとするところであります。~中略~折からオランダにおきましては日本古美術展が開催され、大層好評を得ていると伝えられておりますが、このような芸術の交流こそ世界の協同(※原文ママ)を促進するもので、世界平和へ貢献するところは計り知れないものがあると言えましょう。~後略~ 岸総理大臣がこの文面の如くファン・ゴッホの神髄を理解していたか否かはむろん問題ではない。なんといっても総理大臣主催でこんな大規模なゴッホ展が開催されたことに目を瞠るのである。このときの岸は、ゴッホ展の開催に躍起になっていたのだ。ゴッホ展は、すべて「ファン・ゴッホ展委員会」なる組織によって運営、実施された。同委員会のメンバー表を覗いてみよう。名誉総裁が高松宮殿下、名誉顧問に岸信介以下五人が名を連ねている。 藤山愛一郎(外務大臣 ※当時、以下も)、灘尾弘吉(文部大臣)、二名略、安井誠一郎(東京都知事) 55年体制時は、政治はいうまでもなく、経済、文化、何でもかんでも自民党が先頭立って事を進めていたことがこれでもよくわかる。政治の世界においてはまさに自民党にあらずんば、政治家ではない、というような様相を呈していたのだろう。自民党専制時代だったのである。ゴッホの作品にしても自民党のツールのひとつだったに違いない。 本稿主役の歴史から消された「もうひとつのひまわり」は、このときやってきた130点の中のひとつとして我が国に上陸した。ゴッホ展終了後、京都美術館に催場を移動し、京都美術館にてゴッホ展は催される。件の「ひまわり」も京都に。数奇な運命はここから急展開する。 総理大臣主催のゴッホ展は、すべての日程を終え、やってきた作品は帰国することになる。しかし、130点のうち4点だけが日本に残ることとなった。それは、日本の浮世絵4点(ゴッホは浮世絵に魅せられていたという有名な逸話が思い出されよう)と交換することに決まったからだ。まるで、プロ野球の大型トレードのような話だが、先の岸の挨拶をここで振り返って欲しい。『折からオランダにおきましては日本古美術展が開催され…』好評を得ていると述べている。つまり、このときオランダにおいて出展されていた我が国の古美術品のうち4点がトレード要員となったということである。その選定を誰がしたかは推して知るべしだろう。先のファン・ゴッホ展委員会である。それを裏付ける展開をこの後見せる。ゴッホ作品と浮世絵の4対4のトレードのうち、「もうひとつのひまわり」が、なんと岸の計らいで、藤山愛一郎の個人所蔵となるのだ。今ではこんなことは決して看過されることはないだろう。国費で持ってきた美術品をこともあろうに、〝計らい〟で、一政治家の個人所有になるとは。当時の自民党はなんをやっても許されたのか。政治倫理もへったくれもない。 ここからの「もうひとつのひまわり」は、急転直下、とんでもない運命の渦に巻き込まれる。
2024.11.22
12点あるゴッホの「ひまわり」 フィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」は、遍く名画の中でも我が国においてもっとも有名なもののひとつであろう。我が国には、複数存在する「ひまわり」のひとつがある。バブル華やかなりし1987年に安田海上火災(現損害保険ジャパン)がそれをロンドン・クリスティーズで落札、58億円を投じて我が国に引っ張ってきた時、そのことはあたかも事件の如く報じられたものだ。その時の同社社長だった後藤康男(故人)が、同社運営の東郷青児美術館(現SONPO美術館)の不入り打開策として強引にこの世界的名画のひとつを文字通り札束をたたきつけて同美術館の目玉に据えた。35年を経た今でもその〝目玉〟は、後藤が引っ張ってきたときのまま、同美術館に鎮座する。日本人にとって親しみ深い絵というのは、このことに由来する。遠くルーブル美術館まで行かなくては見られないシロモノではないのだ。 「ひまわり」は、この世に、7作とも11作、あるいは、12作あるといわれている。このうちどれが定説なのかははっきりしていない(※ひまわりが花瓶に挿してある構図、そうでない構図でお互いが別物扱いされているようだ)。第一作と言われるものは、1888年8月に南フランスのアルル、〝黄色い家〟にてゴーギャンとの共同生活時に描かれたとされている。この作品を皮切りに、半年あまりの期間でゴッホは7つの〝ひまわり〟を描き上げる。ちなみに、安田海上後藤が35年前に購入したのは、四作目とされている。あまりにも有名な「ゴッホ耳切事件」の後に描かれている(1888年12月)。このように、「ひまわり」7作品については、目下、極めて厳密な注釈と管理が施されている。 美術専門誌でもない本誌においては奇異に見えたかもしれないが、ここまでの講釈はこれから語る驚くべき事態を描く上で、最低限知っておかなければならないことなのだ。 ゴッホ作の「ひまわり」に、もう一点加わる、そして、それは実は長年我が国に眠っていた、としたら。まるで、ミステリー映画の惹句のようだが、そうではない。その「ひまわり」(50号)は、今、都内の財閥系倉庫の片隅に安住の地を得た如くひっそりと眠っている。持ち主は現存している。ただ、あまりにもセンセーショナルな事態だけに所有者は頑なに沈黙を守っている。これからもこの状態は保たれていくだろう。数少ない関係者からのインフォメーションをつなぎ合わせてみると、この「もうひとつのひまわり」は、目を剥くような逸話がまとわりついていた。いわゆる、55年体制下の自民党のおもちゃにされ、時には人前にさらされ、あるときには、総裁選の軍資金に化けたりした。なんとも数奇でおぞましい運命に翻弄されているのだ。その運命の変遷は下手な大河ドラマよりも面白い。
2024.11.21
2024.11.20
2024.11.19
2024.11.18
ODA(政府開発援助)事業における日本の国際的な信頼が揺らいでいる。事業の日本側の実施機関であるJICA(国際協力機構)の男性職員が、フィリピンの鉄道改修業務の見積額など秘密情報を東京都内の建設コンサルティング会社に漏えいしていたことが発覚したためだ。「みなし公務員」であるJICA職員は公務員としての守秘義務に加え、国際協力機構法でも罰則付きの守秘義務が課され、入札情報の保秘徹底が厳守されるべきなのは言うまでもない。ただ、前代未聞の不祥事にもかかわらず、JICAはこの職員を停職1か月の懲戒処分にしただけの「とかげの尻尾切り」で事態を終焉させようとした。関係者からは組織的なコンプライアンス意識の低さを批判する声が上がっている。 ▼後手の対応に外務省も怒り 日本が発展途上国を支援するODAに参入してちょうど70年目。今回の職員による情報漏えいは、長年にわたり日本が築いてきた歴史に泥をぬるともいえる大問題だ。だが、JICAは当初、職員の懲戒処分については7月8日に「調達手続きに関する秘密情報を漏えいした」とホームページ上で短く公表したのみ。「ODA」の単語にすら言及せず、普段からJICAを取材する機会がある外務省記者クラブへの周知も行わなかった。 事態が急変したのは10月中旬。読売新聞が10月14日朝刊1面トップで「JICA情報漏えい疑い 比ODA 入札参加企業に 職員を懲戒処分」とスクープしたのがきっかけだった。報道で国際的な不祥事が公になり、内閣官房副長官が定例記者会見で説明に追われる事態に発展した。11月になってからは、JICAが元検事長の弁護士を委員長とする外部有識者らによる検証委員会をたちあげた。 あるJICA関係者によると、今回の問題は不祥事を調査する部門のほかにはごく一部の役員らにしか知らされていなかったため、多くが読売新聞の報道で把握したという。読売新聞は「(JICAは)円借款の相手国や対象事業などは現在まで明らかにしていない」と報じており、報道機関に不祥事を突き付けられながらも、何とか詳細を伏せようとするJICAの「隠蔽体質」が垣間見える。 外務省関係者は「読売の報道が出た後にフィリピンのODA事業だと認め、当初は想定していなかった検証委員会を発足させるなど、全ての対応が後手になり、組織として恥ずかしい」と呆れるばかりだ。 今回の情報漏えいが判明したのは、日本と約381億円の円借款(有償資金協力)契約を結び、フィリピン政府が発注したマニラ首都圏の都市鉄道改修事業のうち施工管理業務について。職員は2018年5月頃、施工管理業務の入札参加が見込まれていた東京都内のコンサル会社の社員に対し、JICAが現地調査などで算出した見積額や、比政府が作成した業務内容などを複数回にわたりメールで漏えいしたとされる。 途上国のODAでは、JICAが算出した事業の見積額を参考に相手国政府が入札予定価格を決めるため、前出の外務省関係者は「見積額=入札予定価格といっても差し支えはなく、今回の漏えいは、実質的に官製談合のようなもので悪質だ」と憤る。 ▼検証委 生半可な調査許されず 職員はJICAに対し、漏えいした動機については「入札不調などで事業が停滞するのを恐れ、受注企業を事前に確保する狙いがあった」と説明しており、日本企業側から金銭の授受は確認されなかったという。事業の見積額という重要な入札情報を秘密裏につかみ、実際にJV(共同企業体)として事業を受注した東京都内のコンサルタント会社の責任も本来は見逃せない。日本の巨額の税金が投入されているODA事業に参画するからには、企業としての説明責任を果たすべきだろう。 職員の懲戒処分からちょうど4か月後の11月8日に急きょ発足した検証委員会。JICAは「問題を再検証し、再発防止策を検討する」としているが、検証委がどこまで調査範囲を広げるのかは不透明なままだ。処分された職員にとどまらず、上司らの責任など組織的な問題に切り込み、フィリピン以外の国のODA事業も含めた幅広い調査が求められる。職員による情報漏えいと、不祥事情報の「隠蔽」で失った信頼を回復するには、生半可な対応では許されない。




