社会•事件
2025.09.01
2025.08.31
8月のお盆を過ぎると今年の夏もラストスパート。残された夏休み期間に夏祭りや花火 大会がラッシュを迎える。私はアラフィフ男性。夏の終わりは切ない印象を抱く人も多い と思うが私は比較的好きな時期。「うつむいたひまわり」「残暑に忍ぶ秋風」「足早な夕 暮れ」など季節の節目としてはエモく表現されることが多い。望む望まぬを問わず夏の終 わりは必ず来る。来年になればまた夏はやってくるのだが、今年の夏とはもう会えない。 切ないようで美しい。終わりがあるから美しいのである。 さて、夏になるとよく聞く曲、この曲が流れてくると夏だなと思う曲があなたにもある だろう。例えば「夏祭り」。以下に代表的なもの挙げる。 「あー夏休み」TUBE Hold Me Tight だって恋みたい 指が切ない 砂の数ほど 愛したいけど It‘sall night 泣いたっていいんじゃない 粋な別れに あー夏休み チョイト 終わらないで もっとまだまだBaby どうやら夏の終わりと失恋がテーマとなっている。夏の終わりと共に恋の終わりを迎える 名残惜しさを歌った名曲。別れた彼女の幸せを短冊に願うあたり、未練の大きさが半端な い。 「夏祭り」Whiteberry 君がいた夏は遠い夢の中 空に消えて行った 打ち上げ花火 この曲は片想いの曲。打ち明けられなかった恋心を打ち上げ花火の残像に例えている。過 去の切ない出来事を振り返る曲。この曲はWhiteberryによるカバーであるが、オリジナル のジッタリンジンの好きだ。ジッタリンジンのバージョンは2ビートの軽快がある。この 曲はヤクルトスワローズのチャンステーマにもなっていて神宮の夏のライトスタンドには 欠かせない。もちろん打ち上げ花火はホームランのこと。 「少年時代」井上陽水 夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれにさまよう 青空に残された 私の心は夏模様 タイトルからわかるように少年の時に抱いた夏祭りが寄せた胸のたかなりを夏模様と表現 している。自分ではなく誰かが憧れた道を歩む自分を「彷徨う」と表現し、少年時代に持 っていた自分の生き方を美しく儚い花火に置き換えている。思い通りの人生を歩んでいる 人はそう多くないだろう。希望を抱いていた少年時代の前後は夢である。確かにその通り であろう。少年時代のワクワクした将来に思いを馳せていることが陽水にとっての夏模様 なのである。 「夏まつり」長渕剛 いつまでこうして君と 寄り添い方を並べて 来年の夏も 線香花火できるといいのにね 燃えて散るのが恋ならば そのまま消えずにかがやいてくれ 私が中学生くらいの頃、勝手もらったばかりのギターで必死に練習した曲。初めて弾いた スリーフィンガーの楽曲でイントロが繊細で抒情的だった。花火大会ではない、夏まつり でのひと時と線香花火をする二人。線香花火をきれいだと言いつつ、彼女に自分の気持ち を伝えているあたりが小説的。彼女との関係に抱く不安とずっと一緒にいたいという願望 を現わした曲。不安だらけの思春期の男性の弱さを感じる。二人で、浴衣で、夏まつりに 行って、わたあめ、おみくじ、金魚すくいに線香花火をしているのだから、私からすれば 羨ましい限りだ。 以上、夏や夏祭りに関する曲は桜ソングに負けないほどある。往々にして何故か失恋ソン グが多い。
2025.08.29
2025.08.28
2025.08.28
2025.08.24
2025.08.23
夏の高校野球が何かと話題となっていた。広陵高校の部内暴力事件、暑さ対策、DHの導 入案、1試合7回制案、全校生徒が23名しかいない通信制高校の出場、公立高校がベスト 8に勝ち進んだ件など話題が豊富である。 かく言う拙者も35年前は高校球児の端くれだった。公立高だが1学年下は甲子園出場を 果たしている。当時の野球部では当たり前だったことが何故か今では一大事として問題視 される。部活動にしごきなんてものは当たり前。野球部に至っては、バットは球を打つも のではなく竹刀として活躍していることの方が多いくらいだ。上級生のみならず顧問の先 生はその先頭にたっていた。真夏の炎天下、水分補給は許されず皮膚は白く塩が吹き鱗模 様になっていた。足腰を鍛えるためにうさぎ跳びをしながら頭上で剣道のようにバットを 振り続けてグランドを何周もするシゴキも毎日のように行われた。先輩たちはそれを「人 生学園」と呼び、エラーしたり、チャンスに凡退すると、「てめぇ、人生学園3周してこ い!」という具合で指令を受ける。苦痛に涙しながら人生学園を行う。集合時間に遅れる と容赦なくビンタが見舞われる。ビンタをされると「ありっした!」となぜか礼まで言わ される。アントニオ猪木のビンタでもなくただ1、2年早く生まれた人のからのビンタだ。 ありがたいわけがないのに。 指導者、先輩、後輩に絶対的なヒエラルキーが存在したことに理不尽や不条理を感じて はいたが異を唱えることはなかった。それはなぜか、先輩たちもそのような理不尽な状況 を黙って乗り越えてきたことを知っていたからだ。そうだとすれば負の連鎖は止まらない 。少なくとも当事者では止められない。 そんなシゴキや体罰を乗り越えることで何か得たものはあるのか。何を得たのかよくわ からないが、結果的な事実として野球部の進学実績が他の部活よりも群を抜いて良かった 。京都大、大阪大、神戸大、同志社、立命館、関西学院大ほか医学部に進学した者もいた 。野球部で培った忍耐力と集中力が功を奏していたのだろう。ただし、野球は補欠、大学 も三流という拙者のような例外もいるのだが。 シゴキや体罰を肯定はしない。だが、理不尽や不合理なこと、一見無駄に思えること、 合点がいかないことが社会には溢れている。そのようなことの方が多いくらいだ。その都 度、挫けたり、敵対したり、投げ出したりしていては人生のロスに繋がる。改善したり淘 汰することは良いことだが、そもそも、そのようなことをものともしない超合金のような 強い心身を備えていたいものである。小学、中学、高校と野球部を通じて得たものは鋼の 精神力だろう。得体の知れないものかもしれないが、それこそが何物にも代えがたいもの でもある。 (坂本雅彦)
2025.08.22
2025.08.21




