2025/02/06
蔦重が耕書堂を開いた1772(安永元)年、10代将軍・徳川家治の側用人、田沼意次が江戸幕府の老中に昇格した。老中は10万石以上の譜代大名から将軍の意向および幕閣の推薦などで4~5名選ばれ、そのトップが老中首座となる。当時の首座は意次ではなく、越智松平家3代目の松平武元(たけちか)である。
意次の経歴は異色で、紀州徳川家の四男だった吉宗が8代将軍に就く際、江戸まで連れて行った紀州藩の側用人の中に意次の父で足軽だった意行がいた。意行は旗本に抜擢される。
意次が西丸小姓として仕えた9代家重は、、病弱で吃音のため大奥にこもりがち。そこで家重の側近たちや大奥との意思疎通に、意次は欠かせぬ存在となったようだ。男前であることに加え、贈り物などの心配りが細かく行き届くため、大奥から信頼を得ている。こうして10代家治の絶大な信頼を得ることに成功、側用人から老中に上り詰めたのだった。
意次はここから1786(天明6)年に失脚するまで、老中として辣腕を振るう。
意次について我々がまず思い浮かべるのは、やはり「わいろ」である。歴史の授業でなぜかしつこいほど繰り返された田沼=わいろ。しかし、それには大きな理由がある。当時の意次とその周辺の政治に関する資料がことごとく消失しているのだという。おかげで後から貼られた「わいろ政治家」というレッテルを長年剥がすことができずにいる。
それにも近年は意次についての研究も進み。その人物評が大きく変わってきている。と同時に、当時の政治史の資料を誰が無きものとしたのか、おおよその見当はついているようだ。もちろん、『べらぼう』の劇中にもすでに登場している。(つづく)
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