2024/12/26
そもそも当時の貴族は、京の都で頻繁に徒党を組んでは騒乱事件を起こしており、些細なことをきっかけにヒートアップして人を殺すことも珍しくなかった。NHK大河ドラマ『光る君へ』では穏健に描かれた藤原道長も例外ではなく、官僚の採用試験で便宜を図った友人が不合格となったことに怒り、従者に命じて拉致した試験官を縛ったまま都を歩かせてさらし者にしたという。
刀伊撃退の立役者・藤原隆家もそんな貴族の一人だった。979(天元2)年に生まれ、常に行動を共にした兄・伊周(これちか)とともに関白・藤原道隆を父とする名門出身。しかし道隆が早逝したため、その弟(兼家の三男、異母兄弟を入れて五男)・藤原道長と伊周は最高権力者の座を巡って激しく争う。隆家も含めたお互いの従者たちがしばしば衝突、死者が出る騒ぎもあった。
そんな権力闘争のさなか、この兄弟は996(長徳2)年、花山法皇とその周辺との間で乱闘を起こし、法皇の従者2人を斬首しただけでなく、隆家が法皇本人の袖を矢で射抜く大事件を起こす(長徳の変)。二人は失脚し、地方に左遷された。その後恩赦で中央に復帰するも、1010(寛弘7)年に伊周は病死。道長との権力闘争はほぼ勝負がついた。
その後眼病を患った隆家は、眼病の名医がいるという筑前国大宰府に、その長官である大宰権帥として赴任することを希望。1014(長和3)年11月に念願かなって筑前国に下り、大宰権帥の座に就いた後は打って変わって善政を敷き、地元・九州の豪族たちも心服したほどだという。1019(寛仁3)年の刀伊入寇は、そんなときに起こった大事件だった。
もっとも、この隆家という武闘派貴族が武士の始まりというわけではもちろんない。「武士」という階級の始まりに関わってくるのは、隆家本人よりもむしろ隆家と行動を共にした「武者」たちだった。(つづく)
※主な参考文献
関幸彦『刀伊の入寇』中公新書
TIMES
連載•小説






