2025/11/09
気鋭の映画監督泊誠也による『冤罪のつくりかた』。製作現場ではクランクアップに向けた作業の真っ最中のようだ。(※『冤罪のつくりかた』公式LINEアカウントを見よ)
そこはさぞ熱気に包まれていることであろう。なにしろ泊自身の気合の入れ方が違う。それはインタビューをしている間、徹頭徹尾感じたことだ。泊が発した言葉の中でもとりわけ筆者に突き刺さったフレーズがある。
「この映画を創っていて改めて気付いたことなんですが、検察っていう組織は誰からも監視されないし、やることに対して誰からの制約も受けないんですね。こんな組織というのは他にないんですね。これに気付いた時、怖いことだなあ、と心底思いました」。
これはとても重要な〝気付き〟としか言いようがない。誰からも監視されず、また誰からの制約もない、なた誰からも咎められない。これ、言葉を変えるならばやりたい放題ってことである。やりたい放題できる組織というものが今のこの時代にあること自体、恐ろしいことといわざるを得ない。
「そういう組織だから冤罪が絶えないんだ、とは言うつもりも思ってもいません。しかし、冤罪をつくりだす要因の奥深いところにこうした検察という特殊な組織の在り方というものが潜んでいるのではないか、と考えるのです。このとてもデリケートな部分を映画で表現していきたいと思っています」(泊)。
この泊の意気込みはとても勇気のいることである。〝史上最強の捜査機関〟といわれた検察。しかし、そうはいっても冤罪は現に起きている。もしかしたら過去の事件でも実は冤罪だったが、結局そうではなく片付けられてしまった事件だってあったのではないか。けれどもたとえそうであっても検察の在り方に異を唱えることは現実問題できない仕組みになっているのだ。誰からの監視も制約も受けない組織に疑義すら持つことは許されないのである。思い出して欲しい。冤罪事件の究極ともいえる〝袴田事件〟において無罪(冤罪)が確定したときの検察の言動を。静岡県警本部長が袴田巌さんの自宅に足を運んで深々と頭を下げたのに対して、検察は検事総長談として『遺憾である』としか言わなかった。同じ捜査機関としてこの違いは何か。その答えの一端は、今、泊が描き出そうとしている映画の中にありそうだ。
泊は検察というものの侵されることのなかった特別な領域に静かに斬り込むような映画を創っている。『冤罪のつくりかた』のキャッチフレーズをもう一度見るがいい。
〝なぜ正義は暴走するのか?〟(つづく。敬称略)
廣田玉紀(フリーランスジャーナリスト)
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