2025/10/23
泊誠也監督の野心作『冤罪のつくりかた』、前回でもお伝えしたが目下、撮影真っ最中、佳境に入っている。クランクアップが待たれるばかりだが、泊へのインタビューを軸にこの映画についてさらなる考察をしていこう。
タイトル通り、この映画は冤罪がテーマである。冤罪については昨今、大きな耳目が集まっていることに異論をさしはさむ余地はない。
袴田事件(1966年~)、福井女子中学生殺人事件(1986年~)、大河原化工機事件(2020年~)、プレサンス事件(2019年~)、村木厚子冤罪事件(大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件 2010年~)……。ちょっと頭をひねって思い出すだけでもこんなに出てくる。起こった年代も広範でまるで冤罪国家とでもいえるような有り体だ。列挙したのは巷間に大きく取り上げられたものだけだが、ちょっと待てよ、ということは都道府県の各位裁判所や地方検察庁、そして警察では、一事が万事のたとえ通り、それこそ日常茶飯のごとく起こっているのではないかと錯覚させるに十分な状況といってもいいのだ(実際そうなのかもしれないが)。くわばら、くわばら。
それでも冤罪に対する危機感については国民全体レベルでの機運となって盛り上がってきているのかどうか首をひねりたくなる。このもどかしさ。誰だっていつ〝冤罪〟というモンスターに襲われるかわからないのに、そんなのんきなことでいいのか?、そんなもどかしさがあるのだ。
それはどこから来ているのか。ここが大事なところだが、筆者はその事由のひとつに冤罪を作り上げる側に対する〝無知〟があるのだと感じる。それと〝恐怖〟。冤罪がつくり出されるメカニズムについては、警察に始まって検察、そして裁判所という順になんとなくわかっているのだが、翻ってつくりだしている側の深層については知る余地はない。つくりだしている側も決してその本質をわれわれにさらすことはないのだ。すべてシークレット、そして、そこにへたに逆らうと何かの因縁をつけられて、〝罪〟側に引っ張られてしまうのではないか、という恐怖が頭をよぎってしまう。それ故に勇気を振り絞って〝冤罪〟への糾弾ののろしを揚げかねてしまうのではなかろうか。いや、そうなのだろう。マスメディアなどはある意味ハッキリしていてそれは露骨である。決していの一番に冤罪糾弾ののろしなど上げはしない。冤罪を作る側の飼い犬のようなものである。あてになるわけはない。
この漆黒の常態の中、冤罪をつくりだす側の赤裸々な有様を映画にしようと立ち上がったのが泊だ。これはとても勇気ある、そして有意義なことだと思う。なかなかできることじゃない。この映画に強い期待を寄せるのにはこうした背景があるのだ。(つづく。敬称略)
廣田玉紀(フリーランスジャーナリスト)
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