2025/05/08
ここで、イサーク・ティチングという別のオランダ人の証言が興味深い。東インド会社のメンバーで外交官でもあったティチングの著書『日本風俗図誌』は、江戸時代の習俗や政治を体系的に記録したすぐれた研究書であり、歴代将軍の事績や婚礼・葬儀の儀式について詳しく描いている。
当時は長崎・出島の商館長として高位の幕閣や大名にも知己がいたティチングは、『図誌』の中で家基の死について、「狩の途中で乗馬もろとも崖から落ちて、血を吐いたことが死因と言われている」と具体的に記している。ティチング、フェイト両者の記録物に幕府の検閲を受ける義務はない。死因をどうとでも隠蔽できる病死という表現よりも、大怪我による死の可能性のほうがずっと高い。
それが事故によるものなら、鷹狩に随行したメンバーは切腹か御家断絶が当然であろう。ところが、その後の経歴をたどると、まず鷹狩の総責任者だった西の丸若年寄・鳥居丹波守忠意(ただおき)はその後なぜか本丸若年寄に昇格している。
鷹匠の内山永恭(えいすけ)は旗本クラスに家基につきっきりだった馬方・村松歳釐(としのり)は、何と次の11代将軍・家斉にそのまま付いて、その後も14代将軍まで代々御召馬預を務めている。
そして永恭の義兄は、何と将軍家御庭番・村垣左大夫軌文。代々将軍直属の諜報員を務める御庭番の最も重要な業務は将軍のお世継ぎの警護であり、軌文の息子・定行は家基と同い年。定行が鷹狩に随行した可能性は極めて高い。
その定行は後に勘定奉行——今で言えば財務事務次官——にまで出世し、他ならぬ一橋治済の片腕として大活躍した人物なのだ。(つづく)
参考文献:秦新二、竹之下誠一著『田沼意次 百年早い開国計画』文藝春秋
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