連載•小説 「未知との遭遇」はあまりに早すぎた 田中マルヲ
「未知との遭遇」はあまりに早すぎた 田中マルヲ
連載•小説

2024/11/02

スピルバーグ渾身の黙示録

「未知」という言葉がある。未だ(誰も)知らないこと・ものを表すこの言葉には無限の可能性が秘められており、エンターテインメントにおいては格好の題材だ。
しかし、まだ知らないものを生み出し、それを人々に表現することは本当に可能なのだろうか。
当然といえば当然だが、我々の知覚の中にあるものは「未知」ではなく、「既知」の物として扱われ、もし創作物の中で「未知」を扱う際には、我々は「既知」の言葉や道具を用いてそれを表現しなければならない。「未知の見た目」なのか、「未知の動き」なのか、またはそれ以外の要素か。
クリエイターは、自身知識の内に在る物を使って、知識の外にある物事を表現えざるを得ないという、強烈なジレンマと向き合わなければならない。その中で、今日においても世界的なトップクリエイターとして活動するスティーブン・スピルバーグは、一九七七年公開の『未知との遭遇』で、彼なりの「未知」を表現することに成功している。今回は『未知との遭遇』を題材に、彼が「未知」を見せるにあたって映像に込めた工夫を考える。

 ある日、一九四五年に行方不明となった筈の戦闘機が砂漠で発見される。当時と寸分違わぬ姿で発見されたそれらは、調査団を困惑させた。時を同じくして、アメリカでは謎の発光体が目撃され、大規模な停電被害が発生していた。主人公ロイ(リチャード・ドレイファス)は発光体(UFO)によって奇怪な現象に巻き込まれ、UFOの放つ光を浴びて以降、狂気的なまでにその存在に固執する。少年バリー(キャリー・ガフィ)とその母親ジリアン(メリンダ・ディロン)も同様の現象に遭遇。UFOの光を浴びた者は全員、脳内に山のような物体のイメージが焼きついて、クリームや絵画でそれを描こうと試みていた。UFO学者ラコームらは宇宙からの信号を発見し、解析を行う。信号が地球の座標であることを突き止めた彼らは、その座標にあるワイオミングのデビルズタワーにて宇宙人との本格的な接触を試みる計画を立てた。ロイとメリンダは、頭の中のイメージがデビルズタワーである事を確信し、自らの求める答えがあるとそこへ向かうこととなる。多数のUFOが現れ、彼らと交信が成功したかに思われた矢先、巨大な母船が出現。そこから現れたのは、行方不明になっていた地球人の姿だった。彼らとの再会に驚くのも束の間、中から母船の主が出てくる。ロイは何かに惹かれるように彼らと共に船内へと乗り込み、母船は地球を去る。

「光」の効果

本作の「未知」の存在を表す上で、真っ先に語るべき要素は「光」の効果であろう。明暗を意図的に使用することによって、視覚的なインパクトや、狙い通りの感情を引き起こしたりするように、光が映画の中で重要な役割を果たしている例は非常に多い。とりわけ本作では、光の強弱が主人公や観客に大きく作用していることは疑いようがない。ここでは、頻繁に用いられた「光」の働きから見出せる「未知」と「既知」の境界について分析していく。

 まず、本作において、UFOが現れる際の時間帯に注目したい。実は、怪奇現象が起こる時間帯は昼夜を問わないのに、UFOそのものの存在が認識される時間帯は、極端なまでに夜に限られる。しかも、街全体が停電に陥るなど、人工的な光すら遮断される場合がある。灯火の無い暗闇に現れたUFOは、その強力すぎる光によって、見た人々の顔を日焼けさせてしまう訳であるが、何故それ程までの光を用いらなければならないのかという疑問が拭えない。最後にUFOの母船が出現するまで、UFOの詳細なフォルムは確認するのが難しい。暗闇の中で、我々の目には刺激が強すぎるレベルの光を発しながら移動していくものだから、ぼんやりとした輪郭くらいしか捉えきれないのだ。私はここに、人類と「未知」の線引きを作っていたのではないかと考える。UFOの眩い光は、その眩しさ故に目を瞑らざるを得ず、人類の知覚では入りきらない存在、つまり「未知」の存在を示唆しているに他ならない。いわば、光の強さで「未知」の領域の絶対不可侵性を表現しているのである。

 強い光を不干渉や不可侵の象徴と位置付けるならば、弱い光はその逆の受容や許容といった、繋がりの意味を持つ。終盤、音による交信を試みる際のUFOの光量は、序盤に比べて明らかに目に優しいものとなっている。目を覆わざるを得なかった人類が、UFOの集団を凝視しながら交信を試みる姿からも、UFOと人類が融和しようという姿勢が窺える。「未知」が「既知」のものとして、人類の知覚に入り込もうとする瞬間がカメラに収められている訳である。一連の集大成とでも言おうか、巨大な母船が姿を表した際には、その詳細なフォルムを観客ははっきりと目に入れることができる。光が視界の邪魔をすることがなく、初めて最初から「未知」を人類の知覚で認識できるシーンなのである。

一方で、UFOの扉が開いた際には、その内部はまたも強力な光によって見ることができなくなっている。
このことから、人類とUFOは、表面的な相互理解に成功したものの、まだ内部に入り込むほどの深い交流に至っていない関係であることが推察される。内部の光によって、出てきた人類は最初、シルエットのみでしかわからない。
段々と光の弱い場所に行って姿が確認できるという過程もまた、「未知」から「既知」へのシークエンスを順当に踏んでいる。
主人公のロイが光の船内に入り込むのは、人類の「既知」から作り出された「社会」から解き放たれ、その外側の「未知」へと旅立つといった意味が内包されている。
『未知との遭遇』とは、我々の手に届かなかった「未知」が「既知」の領域に降り立ち、人類が新たな知覚(知見)を手にすることが出来る過程を丁寧に描いている。

 光彩効果とは他にもう一つ、カメラワークについても言及しておきたい。特に登場人物の顔を写した際のズームインとズームアウトの使い分けは、人が「未知」に触れるその瞬間の没入感を際立たせている。
まずはズームインについてだが、これはかなり意図が明確と言える。被写体を大きな情報から小さな情報へと集中させていくことで、その小さな被写体の意識や感情と、観客のそれを一致させていこうとする動きだと考えられる。
注目してもらいたい対象以外の雑多な情報を排除する事によって、よりわかりやすく明確な心的描写を観客に見せることが出来るのだ。一方でズームアウトは、「個」に視点を注目させたい動きのズームインとは逆で、「集団」だとか「多数」を見せたい時に用いると考えるのが妥当だ。
本作の主人公ロイは次第に社会から爪弾きにされてしまうように、普通とは違った人間として描かれている。
このことから考察すると、「普通の集団」のなかに一人それとは違う人間を置き、全体をカメラに納める事によって、より一層その異質さや違和感が際立つ。つまり、ズームアウトという手法は、「集団全て」を写したいのではなく、その中にいる「個」を強調せんがために行われている。
一見真逆の方法でも、映したいものは一貫されており、なおかつカメラという機械知覚ならではのアイデアを効果的に使っている良い例だ。
ここまで光の使い方やカメラワークについてとりあげ、いかにして本作の「未知」が生み出されているのかを述べたが、実のところ、最終的に出てくるUFOや宇宙人の姿は、これまで様々なメディアで数多く取り扱われてきた見た目であり、我々観客が「未知との遭遇」体験をしているわけではない。
あくまで登場人物にとっての「未知」であり、その衝撃や混乱、冒険をエンターテインメントとして我々が鑑賞するという形になっている。
ただ、その「未知である」という体を最後まで崩すことなく物語を進め、一種のスペクタクル的な要素も含めたエンターテインメント作品として昇華させてしまうその手腕こそ、スピルバーグが映画界のトップに座する理由だろう。

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