秀長が支えた高松城水攻めの包囲の現場
連載•小説
2026/07/02
水攻めの本質は、力で崩す戦いではなく、時間を味方につける戦いにある。高松城では、築堤の高さ、土の締め固め、漏水の抑制が重要だった。堤が脆ければ水は抜け、低ければ城を囲えない。工事は戦闘そのものと同じ緊張感を伴い、現場の統率が成否を分けた。
そこで秀長の役割がいっそう重くなる。秀長は、一門衆の副将として全軍の兵站を掌握し、かつ工事部隊と警戒部隊を束ねて、膨大な土木工事に要した物資と人員の管理を担ったのだ
官兵衛が示した「どう攻めるか」という答えを、秀長は「どう維持するか」というかたちで支えた。秀吉はその上に立って全体を裁定し、包囲と圧迫を続けた。三者の役割は異なるが、互いに切り離せない。
包囲が続く中、孤立した清水宗治の士気は削られ続けた。城内の食糧は日に日に尽きていく。官兵衛は調略の糸も手放さず、城内外への内応工作を重ねた。毛利方も講和を考えざるを得なくなっていく。秀吉は止めを刺す意味も含めて、信長に援軍を要請した。
その頃、信長は何をしていたか。この天正10(1582)年の3月に徳川家康との連合軍で武田勝頼を天目山で自害させた信長は、駿府や浜松で家康の大接待を受けている。5月にはその返礼として30人超の家康一行を安土城に招き、料理に芸事、舞楽と豪奢に接待した。
安土を辞した家康一行は、そのまま大坂経由で堺見物を楽しんでいる。信長がわずかな人数の供を連れて京・本能寺に入ったのが6月初頭だった。(つづく)
西川修一
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