連載•小説 清洲「集団指導体制」を反古にした秀吉
清洲「集団指導体制」を反古にした秀吉
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2026/08/14

 清洲会議において、信長の嫡孫・三法師の家督継承は織田家の筋道として異論なく決定されたが、その幼少を補う「後見人(名代)」を次男・信雄と三男・信孝のどちらが務めるかは結論が持ち越され、当面は信長の側近・堀秀政が三法師の身柄を預かることとなった。

 

領地再配分においても秀吉一強ではなく、勝家や丹羽長秀ら宿老間での勢力均衡が厳密に図られていた。つまり清洲の場は、信長亡き後の織田家を支える集団指導体制が円滑に発足したに過ぎなかった。

 

では、なぜわずか数か月で賤ヶ岳の戦いという武力衝突に至ったのか。そこには、清洲で結ばれた合議制を自ら反古にし、既成事実を積み重ねていった秀吉の計算された単独行動があった。

 

本能寺の変から4カ月経った天正10(1582 )年10 月、秀吉は他の宿老に無断で京都・大徳寺において信長の壮大な法要を挙行し、後継者たる存在感を京内外にアピールした。さらに領内での勝手な城郭築城など軍事的・政治的スタンドプレーを連発する。

 

これに対し、勝家は書状にて「清洲の決定を遵守し、協調して織田家を支えるべきだ」と強い懸念と抗議を表明した。勝家はあくまで清洲の「協調体制」を守ろうとしたのである。

 

しかし、秀吉はこの抗議を無視した。(つづく)

 

(西川修一)

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