連載•小説 竹田城を整備し、生野銀山を掌握した秀長の但馬統治
竹田城を整備し、生野銀山を掌握した秀長の但馬統治
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2026/06/18

 秀長の但馬治政は、戦国武将の領国経営として極めて実務的で、しかも周到であったとされる。天正5(1577)年の但馬侵攻で秀長はまず竹田城を攻略し、その城を拠点に但馬南部の要衝を押さえた。約 3,200 の秀長軍は、秀吉本隊とは異なる別働隊として但馬へ進軍した。

 

とりわけ重要であったのは、城の奪取ではない。現地の生野銀山を掌握し、軍資金の流れを確保した点にある。

 

銀は兵の動員、城の修築、家臣団の維持の支えである。後に佐渡金山・石見銀山と並ぶ江戸幕府の3大鉱山の一つとも言われた生野銀山は、豊臣政権でも採掘した銀の産出量の約 83% を占めていた。

 

秀長はこの経済基盤を背景に、国衆の動きを制し、支配の実効性を高めたのである。再び天正8(1580)年に約 6,400 兵で出陣し、有子山城を落後させ、但馬を完全平定した。

 

さらに、竹田城を中心とする拠点整備によって、軍事・行政・財政を一体で運用する体制を築いた。竹田・豊岡・有子山三城に家臣を配置し、分業統治を確立した。秀吉が前線で大きく動く一方、秀長は取った土地を守り、回し、安定させる役を担った。

 

円山川の漁民に免許状を与え漁の権利を保障するなど、住民の生活も守った。派手さはないが、豊臣政権の基礎を支えたのは、まさにこの堅実な治政であった。これが後の大和郡山に継承される、秀長の統治哲学の原型となったのである。(つづく)

 

西川修一

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