連載•小説 中国大返しで秀吉が駆使した「偽情報戦」
中国大返しで秀吉が駆使した「偽情報戦」
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2026/07/16

備中高松城で毛利勢と対峙していた羽柴秀吉のもとに、本能寺の変の第一報が届いたのは6月3日の夜であった。光秀が毛利方に放った密使を、秀吉方が捕らえたためとされる。秀吉はただちに毛利氏との和睦をまとめ、6日には陣を払って東へ向かった。世に言う中国大返しである。

 

秀吉が単に移動のスピードだけで勝負したのではなかった。行軍の過程で秀吉は、光秀に与しかねない周辺の武将に対し、「信長は生きている」「●●にいる」などというフェイク情報を込めた書状を送って揺さぶりをかけ、時間を稼いだと伝わっている。

 

京の様子も信長の生死も、誰もが確たる情報を持たぬ中、次に実権を奪う候補者が自身の握った情報を都合よく流し込めば、動揺と疑心暗鬼はいくらでも増幅できる。

 

思えば光秀もまた、同じ弱みを抱えていた。すでに述べた通り、信長の首は阿弥陀寺の清玉上人によって闇に葬られ、光秀の手には渡らなかった。この決定的な証拠を欠いたまま、光秀は畿内諸将への調略を続けねばならなかった。

 

細川藤孝・忠興父子や筒井順慶など、かつての与力大名たちは日和見に徹し、光秀への合流を拒み続けた。真偽の定かならぬ情報が飛び交う中で、人は往々にして最も確からしく見える方に流れる。そしてその「確からしさ」を演出する巧拙において、光秀は秀吉に一歩も二歩も及ばなかった。

 

変からわずか11日後の6月13日、山崎の地で両軍は激突し、勝敗は決した。清玉上人が守り抜いた首なき遺骸と、秀吉が繰り出した情報という名の刃――本能寺の変という大事件の裏側には、証拠と情報を制する者が天下を制するという、いかにも戦国的な力学が透けて見えるのである。(つづく)

 

西川修一

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