連載•小説 長島一向一揆「虐殺」で指揮官・秀長は何をしたか
長島一向一揆「虐殺」で指揮官・秀長は何をしたか
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2026/05/18

 天正3(1574)年6月、信長軍の第三次長島一向一揆討伐で、秀吉は同じ一向一揆の討伐のため越前に向かっていた。そのため、東軍(信長、信忠)、西軍(柴田勝家)のほか中央軍を率いたのは、秀吉の代理に立った秀長だった。

 

陸から攻め入ったこの三軍だけでなく、九鬼嘉隆の率いる織田水軍が海路を封鎖、一揆軍の海からの補給路を完全に絶ってしまう。この総勢8万に及ぶ信長軍の猛攻で、一揆軍の城は次々と落とされていった。

 

過去に2度、一揆軍に煮え湯を飲まされた信長の戦い方は容赦がなかった。一揆軍が申し出た降伏を受け容れず、兵糧攻めに耐えかねて城外に出た男女1000人を虐殺。船で逃げようとした一揆軍には銃弾を浴びせて皆殺しにした。

 

追い詰められた一揆軍の裸の抜刀部隊が捨て身の反撃に出た。織田軍はこれで多数の織田一族を含む約1000人が戦死。包囲を突破した一揆軍の兵士は総本山・本願寺のある大坂へと逃亡したという。怒り心頭の信長は、城に残っていた男女2万人をことごとく火責めにし、焼き殺した。

 

比叡山の焼き討ちにも勝るこの惨劇において、指揮官の一人だった秀長の具体的な所業は不明だが、ともあれ信長包囲網の一角だった一向宗・本願寺の勢力がこれで大きく削がれることになった。(つづく)

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