義昭に呼応し家康を一蹴、西に進む武田信玄
連載•小説
2026/04/20
元亀2(1571)年9月、信長は比叡山延暦寺の全山約4,000~4,500の堂塔閣を全焼させ、僧侶、学僧、上人、女性、子供ら約3,000~4,000人を無差別に殺戮したという。
比叡山は伝統的王城鎮護、つまり京の都と天皇を災厄・悪霊・外敵から守る役割を担っており、同時に義昭の権威基盤でもあった。激怒した義昭は当時の正親町天皇に信長への叱責を求めたが、天皇はこの時、中立を維持しているが、ここから義昭は本願寺顕如や武田信玄らとの接触を強化したとされている。
その動きをとがめるため、翌年の元亀3(1572)年9月に信長が義昭に突き付けたのが「十七条の異見書」だった。義昭の人格に対する批判に及ぶ辛辣な内容に、両者の決裂はほぼ決定的となった。
翌10月、戦国最強と謳われた武田信玄軍が、甲府から西に動き出した。義昭の呼びかけというよりも、信玄自身の意志で上洛を目指した可能性が高いのだが、12月には遠江・三方ヶ原で徳川家康軍を一蹴する。
戦上手だがまだ若くて気の短かった家康を挑発し、浜松城を飛び出して追ってきたところを待ち構えてひねり潰したのだ。
信長と強固な同盟を結んでいた家康の惨敗に、義昭は信長を完全に見限ることを決意したとも言われている。信長最大の危機が訪れようとしていた。(つづく)(西川修一)
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