連載•小説 山崎合戦、勝敗を決した秀吉の3方向攻撃
山崎合戦、勝敗を決した秀吉の3方向攻撃
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2026/07/27

天正10(1582)年6月13日、中国遠征から怒涛の勢いで引き返した秀吉軍は、山城国山崎におい
て明智光秀の軍勢と激突する。
秀吉自身の書状(金井文書)によれば、秀吉軍はこのとき3方向に部隊を分けて進軍したという。
道筋(中央)を高山右近・中川清秀・堀秀政、淀川沿いを池田恒興・加藤光泰・木村重茲・中村
一氏、そして天王山寄りの山の手を羽柴秀長・黒田官兵衛・神子田正治・前野長泰・木下勘解
由が受け持った。
その天王山を含む山崎方面の要地を抑えるため、光秀軍は御坊塚に陣を敷いた。秀長は山の手
部隊の一員として、天王山の山腹から進撃してきた光秀方の松田政近・並河易家隊と交戦した
。両軍は一進一退の激しい攻防が続いた。
戦局を大きく動かしたのは、南の淀川沿いを進んだ池田恒興らの部隊だった。淀川沿いから光秀
軍を圧迫し、その左翼側を突く動きが光秀方の崩壊を招いた。右翼側からは中川・高山勢が押し
寄せ、夕刻には光秀軍の戦線が総崩れとなった。
光秀は居城・坂本城を目指して敗走する途中、山科小栗栖の地で落命したと伝わる。いわゆる

「三日天下」の幕切れである。(つづく)
西川修一

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