2026年8月13日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が北方領土の択捉島を訪問した。プーチン氏による北方領土訪問は初めてであり、日本政府は強く抗議した。では、そもそもなぜ択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる北方四島は、現在ロシアの実効支配下に置かれているのか。その起点を理解するには、第二次世界大戦末期の出来事まで遡る必要がある。
北方四島をめぐる歴史は、第二次世界大戦以前から存在していた日露間の国境と深く関係している。1855年の日魯通好条約では、択捉島と得撫島の間に国境が定められ、択捉、国後、色丹、歯舞は日本側に組み込まれた。その後、1875年の樺太・千島交換条約によって日本は千島列島全体を領有することになったが、日本政府は現在、北方四島はこの千島列島とは別の地域であり、歴史的にも一度も外国領となったことのない固有の領土だと説明している。
大きな転機となったのが1945年である。第二次世界大戦末期、ソ連は8月9日に日本に対して攻撃を開始した。当時、日ソ中立条約はなお有効であった。さらに重要なのは、日本が8月15日にポツダム宣言を受諾して降伏の意思を明確にした後も、ソ連軍が攻撃を続けたことである。ソ連軍は8月28日から9月5日にかけて北方四島を占領した。日本政府によれば、当時四島には約1万7000人の日本人が居住していたが、ソ連は1946年に四島を自国領へ編入し、1948年までに日本人を退去させた。
ここで重要なのは、「ソ連が戦争中に島を占領した」という事実と、「その後の国際法上、領有権が確定したか」という問題は同一ではないという点である。日本政府は、ソ連による占領と一方的な編入は国際法上認められないとの立場を取っている。一方、ロシアは第二次世界大戦の結果として千島列島がソ連、現在のロシアに帰属することが確定したとの立場であり、両国の歴史認識と法的評価は大きく異なっている。
1951年のサンフランシスコ平和条約も問題を複雑にした。同条約で日本は「千島列島」に対する権利及び請求権を放棄した。しかし、日本政府は北方四島は同条約で放棄した千島列島には含まれないと解釈している。また、ソ連は同条約に署名していない。そのため、条約によって北方四島の帰属がロシア側に確定したという単純な構図にはならない。
戦後、日本とソ連は領土問題の解決を模索した。1956年の日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すことが合意されたが、四島すべての帰属問題は解決しなかった。その後も交渉は続いたものの、冷戦、日ソ・日露関係の変化、ロシアの安全保障上の事情などが重なり、最終的な合意には至っていない。
つまり、北方四島が現在ロシアの実効支配下にある最大の理由は、1945年の終戦前後にソ連軍が四島を占領し、その後ソ連が統治機構を構築して実効支配を継続したことにある。一方で、それをもって領有権の問題が国際的に完全に決着したとみなすかどうかについては、日本とロシアの立場が対立している。
今回のプーチン大統領による択捉島訪問も、この歴史認識の対立を背景としている。ロシアにとっては、第二次世界大戦の結果として得た領土に対する現在の統治を確認する行為であるのに対し、日本にとっては、自国固有の領土に対するロシアの実効支配を既成事実化する動きと映る。北方領土問題を理解する上では、単純に「ロシアが日本から島を奪った」と捉えるだけではなく、1945年の占領、その後の編入、戦後条約、そして日ソ・日露間の交渉という複数の段階を分けて考えることが重要である。
(ジョワキン)